企業法務弁と街弁のマルクス的分析

街弁よりも企業法務の方がなんか高尚なイメージを持たれることが多い。

 

しかし、企業法務の方が自由度は低い気がしている。

 

結局、企業法務とは、会社の法務業を弁護士事務所に外注されたものであり、企業のために業務をこなすという点では会社員と似ている。

 

(ただし、法律事務所は会社と対等な立場で仕事を受注されるのであって、会社の指揮系統に置かれないという点では労働者ではない)

 

カール・マルクスの分析に沿ってみても、企業法務事務所の業務は「構想」と「実行」が分離されている側面が強い。決められた枠に従って業務を処理するという点では会社員に似ている。そこに自由業としての側面がどれだけあるだろうか。

ワンピースより

(完全な余談だが、マルクスはワンピースの五老星のうち一人のモデルとなっている)

 

 

企業法務にも色々あるが、マンパワーが必要なものの場合(例えば大規模なDDなど)は分業制であり、分業であればあるほど「構想」と「実行」は分離する。

 

「構想」と「実行」が極端に分離されている例としては、工場労働だ。

 

企業法務であっても分業されればされるほど実はその労働者性においては工場労働に近づくのである。

 

会社と弁護士事務所が対等な立場であるとしても事務所内でアソシエイトは業務に関してパートナーの指揮系統に属するから、その点においても「構想」と「実行」の分離が見られる。

 

対して、街弁は事件処理の方法は決められた方法があるわけではない。決められた方法があるとしてもそれは単なる作業ではない。裁量が相当程度あるはずだ。機械的に作業を処理していくわけではない。

 

そう言う面で街弁は「構想」と「実行」が分離しておらず、労働者性としての側面は比較的小さい。

 

ボス弁の指示があるとしてもDDのような徹底された分業ではなく、ある程度の裁量は残るはずだ。

 

最近はTwitter上で魂の格理論というものがあるが、魂の格理論を内面化している人たちは、労働者より自由業の方が魂の格が高いと思っている傾向があると思う。

 

そうすると、企業法務より街弁の方が魂の格が高いと言う余地もあるのではないか。