「効果的で過度でない」という審査基準は良いのか良くないのか。話題になっています。
これについて検証していきます。
⬛︎違憲審査基準論とは
憲法では、違憲審査基準論という違憲審査の手法が(実務上も→少なくとも弁護士が書面書く際は)学説上も承認されています。
これは芦部信喜がアメリカの判例で発達した法理を輸入して、日本でも支持を得てきたものです。
これは3つの審査基準を使い分けようというものです。
厳格審査は①目的がやむに止まれぬ利益、②手段が必要不可欠なもの(アメリカではnarroly tailored これは字義通りぴったりにしたてられたという意味です)
中間審査は①目的が重要で、②手段が目的と実質的関連性を有するもの
緩やかな審査基準は、合理性審査とも呼ばれますが、①目的が正当で、②手段が目的との関係で合理性を有するもの
というものです。
⬛︎効果的で過度でない基準とは
効果的で過度でないとは、このうち、中間審査基準の②手段審査が実質的関連性を有するものではなく、②手段が効果的で過度でない、という基準を立てているものです。
おそらく、どこかの受験指導者が作り出して教えて広まったものだと言えます。
⬛︎「効果的で過度でない」はダメなのか
この基準を使うことに賛成する受験生や合格者たちもいます。
「効果的で過度でない」という基準を使って予備試験でAが来たという報告もあります。
この賛成側の意見としては、「当てはめが充実すればいいから」「司法試験は当てはめの試験だから」という考え方に基づいている傾向があります。
しかし、はっきり言って、この基準は使わないほうがいいです。
理由の一つとして、この基準は
法学・学問の否定の上に成り立っているからです
まず、効果的で過度でないという基準は学問の世界で登場していません。
どこかの受験指導者のオリジナルです。
今度詳しく解説しますが、法学とは約束事を形成するためのツールです。
この約束事というのは言語を使ってなされます。
当てはめの表現なら日常的な言語を使っていても何も言われませんが、特に法規範を表す表現については勝手な単語で表すことはできません
その約束事である言語を勝手に作り出すことは、約束事を勝手に作っていることと同じです(まだ法曹になっていない身分の人が行えばなおさら)。
約束事を勝手に作っているということは、約束を破っていることと同義です。
どの学問もそうだと思いますが、法学というのは、学説や判例という一種の表現市場があり、その表現市場から、使える理論が実務に輸入されてくるわけです。
そうすると、実務からさらにフィードバックが帰ってきて、さらに学問が発達していきます。
法学というのはそのようなサイクルの上に成り立っているわけです。
そこに全く表れていない理論を勝手に使うということは、そのようなサイクルを否定することと≒ないし=ということになります。
(ただし、当該法的論点について議論が進んでいないハードケースに当たったときであれば、法規範を自分で発見・創造するという場合はあり得ます。)
つまり、これは法学を否定することになります。
また、そのような表現市場の否定であり、これは学問を否定していると言えます。
学問という表現市場自体を否定してないとそのような基準は使えません。
⬛︎中身が同じでもダメなのか
このようにいうと、「でも実質的関連性と効果的で過度ではないという基準は意味は同じなんだから別にいいじゃないか」、という反論もあり得るでしょう。
しかし、これが全然よくないわけです。
規範は言語で表される、という話をさっきしましたが、これは逆にいうと、法規範は言語でしか認識できないということです。
つまり、Aという言語で表されるA'という意味(約束事)はAでしか表されないということです。
Bという言語ではA'は表せません。あくまでBの意味はB'です。
B'という意味がA'にどんなに似てたとしても、それはB'にすぎず、A'という意味は決して表すことができないのです。
これは法学が約束事であるということに起因します。
約束事というのはそれを守る人が共有していなければなりません。
しかし、A'という約束事をAやBという違う言語で表す人がいたら、AとBが違う言語であり違うA'、B'という意味である以上、肝心なときに約束を共有できないことになりかねません。
法学はそういうことがなるべく起きないように、約束事を万人に同じように認識できるように、言語を使って広く公示しているわけです。
つまり、結局中身が同じでも、言葉が違えばダメだということになります。
⬛︎おわりに
結局、効果的で過度でないというのは試験的にもできれば使わないほうがいいです。
まずこのような文言は、ほぼ間違いなく裁判所に提出できません。裁判官も困ってしまいます。
試験で使っても、これは法学で使われていない以上、試験委員も自分を否定されているように感じるかもしれません。
答案も一種のコミュニケーションですから、用語法を共通のものに合わせるというのはとても大切なことなのです。
試験に受かればいい。
それもひとつの考え方ですが、共通の言語を使うというのは法律家としても最低限のお作法ですし、社会でも要求される技術・マナーなのです。